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Kant ― にふれる

三つの「批判」 die drei Kritiken ― カントの建築術

カントは生涯をかけて、人間という存在を三本の柱で立て直しました。知ること、なすべきこと、そして美と目的を感じること。三冊の『批判』は、ばらばらの本ではなく、一つの建築です。中央に「私」を立たせて、その周りに三本の柱が立っている――そんなふうに見るとよくわかります。柱にふれて、ひとつずつまわってみてください。

― 私 ―
I.
純粋理性批判
1781 / Kritik der reinen Vernunft
扱う領域 自然・必然性
「私は、何を
知りうるか」
II.
実践理性批判
1788 / Kritik der praktischen Vernunft
扱う領域 自由・道徳法則
「私は、何を
なすべきか」
III.
判断力批判
1790 / Kritik der Urteilskraft
扱う領域 美と目的・橋渡し
「私は、何を
望んでよいか」
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I. 純粋理性批判
私は、何を知りうるか
1781 / Kritik der reinen Vernunft
最初の柱が扱うのは、認識の領域です。人間はどうして世界を「ある」ものとして知ることができるのか――カントの答えは、人間は時間・空間・十二のカテゴリーという認識のかたちを通して世界を構成している、というものでした。

その結論は二面的です。経験できる範囲では、私たちは確かな知に到達できる。けれどその枠の外――神、魂、世界の始まりといった大きな問い――には、理性は答えられない。理性が自分の限界を知ること、それがこの本の核心です。これは自然と必然性の領域、私たちが「世界がこうである」と語る領域です。
II. 実践理性批判
私は、何をなすべきか
1788 / Kritik der praktischen Vernunft
第一柱が「ある」を扱うなら、第二柱は「べきだ」を扱います。私たちが自分のなかに感じる「こうすべきだ」という声――道徳法則は、どこから来るのか。カントの答えは、外からの命令や恐怖や報酬からではなく、自分の理性が普遍的に承認できる法則を、自分自身に課すこと。これが彼の言う自律です。

ここでは、第一柱では認識できなかった「自由」が、実践の領域では確かなものとして現れます。人間を単なる手段ではなく、つねに目的それ自体として扱うこと――自由と道徳法則の領域です。
III. 判断力批判
私は、何を望んでよいか
1790 / Kritik der Urteilskraft
第一柱は「自然」の領域、第二柱は「自由」の領域でした。けれど、この二つは裂け目で隔てられているようにも見えます。必然性に従う自然のなかに、自由な意志はどう介入できるのか?

第三柱はこの二つの橋渡しを試みます。鍵になるのが、私たちが何かを「美しい」と感じる経験と、自然のなかに「目的を持っているように見える」秩序を見出す経験です。これらは厳密な認識でも純粋な道徳でもないけれど、両方の領域に通じている。

この本によって、三つの柱は一つの建築になりました。知る・なすべき・感じる――人間は、この三つを通して世界に住んでいる、と。
三つを、一つの建築として読む
die architektonik ・ a structure of the human
カント自身が、自分の哲学を「建築術(Architektonik)」と呼びました。ばらばらな思索ではなく、一つの構造を立てているのだ、と。

中央に立っているのは、「私」という存在です。その私が、知るとき自然のかたちで世界を捉え、なすべきを問うとき自由の声に耳を澄まし、美と目的に出会うときその両方を橋渡しする。三つは別々の活動に見えて、すべて同じ一人の人間のなかで起きている。

だからカントの晩年の言葉――「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」は、第一と第二の柱が、一人の人間のなかで出会う瞬間を讃えていたのです。そしてその出会いを支えていたのが、第三の柱――美と目的を感じる力でした。
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