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Heidegger ― にふれる

生起 ― 互いを召し合う Ereignis ― das Sein gibt sich zu

後期のハイデガーは、存在を「もの」ではなく出来事として捉え直しました。存在が与えられ、人間がそれを受け取る場として開かれる――この二つは別々に起きるのではなく、同じ一つの出来事として、同時に立ち上がる。彼はこれをEreignis(生起)と呼びました。左右の極が、互いを呼び合っているのが見えるはずです。

Sein
存在
Dasein
人間 / そこに-ある
Ereignis
生起
― 互いを、互いのものに ―
マウスを動かすと、両極の呼び合いが強まります
存在は、動詞である
es gibt sein ・ being gives itself
後期ハイデガーが手探りしたのは、「存在は—である」と語ろうとした瞬間に、存在を「何か」(存在者)に変えてしまう、という難しさでした。風を捉えるのに「風は流れる空気だ」と答えると、もう答えのなかに風はいない。「ある」を「もの」として固定すれば、その瞬間に「ある」は逃げる

だから彼は、存在を動詞として語り直そうとしました。「存在は与えられる」「生起する」「おのれを送る」。ドイツ語の「es gibt Sein」――「存在がある」を直訳すれば、「それが、存在を与える」。誰の手柄でもなく、贈り物のように、存在は与えられている。

そしてもう一つの転回は、存在と人間を別個のものとして考えるのをやめたこと。存在が与えられることと、人間が「それを受け取る場」として開かれていることは、別々の出来事ではなく、同じ一つの出来事の二つの面です。存在は人間を必要とし、人間は存在のもとへと呼ばれている。両者は互いを互いのものにする

Ereignis の語のうちには「eigen(自分のもの・固有の)」が隠れています。存在が人間に「自分のもの」として与えられ、人間が存在のために「自分のもの」として開かれる。この相互の「自分のものになる」が、生起なのです。
シリーズで触れてきたGestellLichtungも、その底にはこの「生起」がありました。Gestell は、生起を忘れて存在者ばかりを立てる極端な姿。Lichtung は、生起がいまふっと与えられているその明けに、静かに立つこと。生起は、シリーズ全体の底を流れていた、ひとつの川の名前だったのかもしれません。
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