文法が、存在論を担っている
die Grammatik ・ a grammar of being
ドイツ語と英語は、主語必須の言語です。雨が降るときも「es regnet」「it rains」と、誰も指さない「es」や「it」を主語の場所に立てなくてはならない。これらは何も指していないのに、存在しないと文が成り立たない――「幽霊主語」とも呼ばれます。
中国語は主語を省略できますが、語順は厳格で、主語的なものが置かれやすい構造です。日本語はもっと自由です。「降ってきた」「ある」だけで、文が成り立つ。主語の場所そのものが、文法的に不要になっている。
ここで不思議なねじれが起きています。ハイデガーが「存在は——である」と語ろうとした瞬間に存在が物化されてしまう、と気づいて、「es gibt(それが、与える)」という奇妙な言い方に逃げ込んだ。けれども、その「es」を立てなければ、そもそも文が成り立たないのがドイツ語でした。彼は文法そのものと格闘していたのです。
ところが日本語に訳すと、これが驚くほど自然に流れます。「存在が、与えられる」「与えられている」――誰が、を問わずに語れる。ハイデガーが文法と格闘してやっと達成しようとしたことが、日本語ではすでに文法に組み込まれている。